住民どうしの助け合いを求めるのは時代に即しているのか

近年、地域福祉というワードに関する議論の中で、コミュニティの再生とか形成とかを標榜する話がでます。

行政の社会福祉政策でも地域住民どうしの助け合いを促進する方針が示されますし、大学等の福祉教育機関でも地域コミュニティの再生、形成の意義が説かれます。地域内での関わりが希薄化しているなかでコミュニティの形成を進めていこうという議論ですね。孤立防止という観点でよく言われる話です。

しかし、現場で働く身としては、地域住民どうしの関わりを深めていこうとする取り組みは時代にそぐわないと感じことがあります。

地域内にある役場などの公的機関、あるいは福祉施設、保育施設などの専門機関の利用ならともかく、一個人としての住民どうしの助け合いが生まれるような関わりを求めている人がどれだけいるでしょうか。

そもそも家族や地域との深い関わりが面倒、難しいと感じる人が増えているから、関わりが希薄化しているのではないでしょうか。そうした流れのなかで、地域や家族の連携を強めていきましょうと呼びかけるのは、「のれんに腕押し」「糠に釘」、刺さらないと思うんです。

好んで孤立しているわけではないかもしれないけど、人間関係を営んでいく煩わしさを思うと孤立しているほうがマシといった感覚を持つ人が少なくないのではないかと感じます。

もちろん、コミュニティの形成という話は単純に住民どうしの関わり合いを促進しようというだけの話ではありません。住民が地域の課題やニーズに対して自発的に行動することや組織するのを支援するとか、そういった間接的な支援の話も含まれます。

ですが、収入が発生しないかもしれない、あるいは収入が生まれる構造を作るのが難しい地域福祉的な取り組みをする時間や能力、意欲がある人がどれだけいるでしょうか。民生委員の制度などもありますが、委員を引き受ける人材は少なくなってきている現状もあります。

そもそも、福祉行政において家族や地域の助け合い、いわゆる共助・自助を叫ぶのは、だいたい社会福祉費を抑えるねらいで使われているのだと思います。

私のような責任の無い、へなちょこな個人が言ったってしょうがないのですが、社会福祉費の増大の問題は、公共事業として道路族などの既得権益の産業に回している分のお金を福祉に回す構造ができれば、かなり状況は変わると思っています。それが簡単なことではないから問題なのでしょうけど。

とにかく、コミュニティの再生、形成といった取り組みを考えるときは、現代人の感性や感覚を冷静に汲み取らないと徒労になりがちです。もちろん、部分的な実現はありますし、その取り組みを否定するつもりはありませんが、そういう議論を普遍的にしようとするのは難しいでしょう。

漠然と話してきましたが、具体的な例を挙げます。

例えば、いわゆる田舎の近所づきあいとか、旧地域社会の寄り合いのようなコミュニティを形成・維持しようとすると、日常の継続的な関わりが必要になりますが、その労力って結構大きいし、億劫ではありませんか。

実際に私が地域福祉と呼ばれる種類の仕事に関わっていたときのことです。孤立防止とかコミュニティ形成を目的にして行われる公民館活動のようなことを呼びかけても、大多数の人は「放っておいて欲しい」といったことおっしゃったり、面倒そうな表情をしたり、特に生産年齢世代の人はほとんど参加しません。もちろん、私の働きかけ自体が下手くそだった可能性も大いにありますが。

参加している人たちの中でも派閥やグループのようなものが出来ていがみ合いが起きたり、派閥・グループが閉鎖的になり新参者を受け付けない雰囲気になったりもします。

一方支援側は、そうした呼びかけに応えて活動に参加する住民は良い住民で、閉じこもりがりな住民を状況が把握しにくい困った住民のように捉えてしまう感覚が生じてしまうこともあります。

私が住民だったら放っておいて欲しい、孤立する権利も尊重してほしいと思います。

最後に、今回の記事は否定ばかりで誰かの役に立つ記事なんだろうかと我ながら疑問ですが、今後、災害が発生して地域復興支援や被災者生活再建支援を要する状況になったときに地域住民に対する直接的な支援活動に関わることになる人がいます。

そういった方や、地域福祉を計画する行政の側の人にも、コミュニティ再生・形成という理念を強調しすぎて現実に即していないという状況にならないような配慮をしていただければと思います。

以上です。

被災地支援者驕るべからず

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